404,Yuichi Nakashima,中嶋佑一













― 頭上に浮かぶ鳥は、空の中を飛んでいるのではなく、鳥の中を空が漂っているのでした。 ―


2013年9月18日。電車を降りると夜空に月が出ていた。明るい。明日か明後日は中秋の名月らしい。

9月19日。朝起きてすぐに草刈りを始める。朝は草に露が降りていて、湿っている。
今は使われていない田んぼには自分の身長近くくらいまである草が生えている。
広い田んぼの中に比較的草の生えが少ない一角を発見したので、そこから草を刈っていき広場にすることに決めた。
初めて電動の草刈り機を使う。最初に大きな草を荒く狩って、それを一度広場の脇にやって、また草を刈っていく。
だんだん地面が見えてくる。昼間になると暑い。
ミステリーサークルのよう。
日が照ってくると露を被っていた草が乾いてきた。
夕方。
草の葉で指が切れる。
草刈り後に歩く。
昔道だった場所は草でいっぱいになっている。かき分けて歩く。
目線と同じくらいの高さの草に、巣のような塊。
動物の骨みたいなものが落ちている。
夜に町の方へ自転車で行ってみた。
この町は城下町でその景観などをあてにして観光客も来る。
自分が通っていた高校へ行く途中の山際に城跡がある。
中学生の時にこの近くの寺子屋へ英語を習いに行っていた。
自分が鳥居をくぐって歩いていることに気づく。
「ばあちゃんが死んでから一年たったから、もう鳥居をくぐっても大丈夫かな」と、思ったりした。
階段と、階段。
左足の膝が痛い。

自分が生まれた場所は、自分が今一人で生活している場所から150km離れた所にある。
「自分が生まれた場所とはいったい何なんだろう。」という疑問は、親が自分に対して言う「家に帰れ」という
言葉に端を発している。
「家に帰れ」とは、今、自分が暮らしている町を離れて、今の仕事を辞めて実家へ戻れという意味だ。
自分が帰らなければ、自分が生まれた家や場所は親族が亡くなれば失われるのかもしれないが、それはいったい
どういうことなのか。
そもそも故郷とはなんなのか。
その場所には今も家が建っている。
それは親の代になってからあるわけではなく、そのまた親もそのまた親もその場所に住んでいる。
マンションからマンションへ、という移動式の仮住まいの購入ではなく、その土地・場所に住み家が存在し続けている。
その時間の経過はそこに住む人々にあるイメージを作り出す。
それは、そこから見える風景、太陽の光りかた、動物の鳴き声、季節とともに移り変わる空気の匂い、それらすべてが
「自分たちの場所である」という質感を作り出す。
大げさに言えば「人生そのもの」にもなりえる。
別の言い方をすれば、「姓」を受け継ぐ場所、家族の名前と血筋を存続させる場所として存在し機能し得る。
物理的に「家」があるからそこに居続けるということ以上のなにか。
老朽化によって家が建て替えられようとも、新しく建てる場所は変わらない。
地面そのものが自らの場所になるのだから。
「帰る」というのは、その家がある場所に住みつき、家という場所を継ぎ、生きて死ぬまでそれを存続させる、もしくは、
子孫を作り、受け継がせその場所を存続させ続けるということなんだろうか。
でも、もし、「帰らない」という選択をした場合、それはどういうことになるのか。
やっぱりその場所は失われるんだろうか。
「自身の場所である」という実感や愛着のようなものは少なからず自分にもある。
そういうものを「故郷」と呼ぶのかもしれないけれど、故郷ってなんなのか、自分を作った場所ってなんなのか、
と考えた時に、自分は何も分からなかったし知らなかった。
自分にとって、親にとって、そして、会ったこともない、先祖や、これから生まれてきて生きるかもしれない人々にとって
どういう場所であるのか。
「地面」そのものが自らの場所であり、それが自らを作ったのであれば、そのことを知らない自分は自分のことすら
分かっていないのだと思う、そしてたぶん、他人のことも分かっていない。
相変わらず空は青い。
どこでも、どこで見ても。
個人が生まれた場所というのはどういうものなのか。
空は本当に、どこまでも、分断されず、繋がっていて、同じなんだろうか。
自分が生まれたその場所と、自分を作ったかもしれない、その空に、聞いてみることにする。
自分がこの世に現れた日の前後2カ月間、その季節、その場所ではどんな空気が流れていて、どんな空があるのか、
それを見てみる。
吹きさらしの野外に、空に向かってキャンバスを広げて、自分を作ったその場所に、自分の自画像を描いてもらう。


(作品「404」から一部抜粋)